こんばんは。まこです。
今日で入籍して1年が経ちました。
早いような、やっとのような…
これからも良き妻、そして良き母になれるよう頑張ります~。
さて、本題は久々の「今日は何の日?」のお話です。
今日は何の日?
今日、5月27日は「海軍記念日」です。
明治38年(1905年)、日露戦争における日本海海戦にてロシアの艦隊に勝利したことを記念して制定されれた記念日です。
日本海海戦とは
明治38年(1905年)5月27日~28日にかけ、日本海軍連合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊によって対馬沖で行われた海戦のことです。
日本の指揮官は東郷平八郎大将。
戦力は、戦艦4、装甲巡洋艦8、巡洋艦15、他合わせて全108隻。
ロシアの指揮官はロジェストヴェンスキー中将。
戦力は、戦艦8、海防戦艦3、装甲巡洋艦3、巡洋艦6、他合わせて全38隻。
ロシア艦隊の苦労
さて、ロシアは海戦に備えていろいろと準備をする訳ですが、明治38年当時黒海艦隊(黒海に駐留しているロシア海軍の艦隊)はロンドン条約により黒海を出ることを禁止されていた為、一部の艦を除いて、遠征に参加することが出来ませんでした。
当時の艦船は蒸気船で、石炭の補給が必要です。
が、航路は日本と同盟を結んでいたイギリスの制海権の下にあり、さらに質の良い石炭はイギリスが押さえてあり、補給は難しい状態でした。
さらにさらに、他の国も中立国以上の立場になれなかった(出れなかった)為、望み薄…でした。
只でさえ条件の悪い中、とんでもない事件が起こります。
明治37年10月21日、北海を航行中にイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤り攻撃、乗組員を殺傷してしまうのです(ドッガーバンク事件)。
この事件の為に、イギリスの反露親日思想は一層高まり、ロシア艦隊はイギリス海軍から追尾され、ロシアの乗組員たちは神経をすり減らしたといいます。
気の毒だけど擁護できん…
他にも、スエズ運河を通る時に重量超過の為にそこそこの量の石炭や弾薬を下さなければならなかったり、航行途中で旅順要塞が陥落して旅順艦隊も日本側の手に落ちたり、戦力補給の為にロシア本国に残っていた艦隊を合流させるも老朽艦が多くて逆に戦力減になっちゃたり。
日本海へ到達するまでに時間だけでなく精神的にも随分消費されたような状態でもありました。
『日本海海戦』という軍歌(大和田健樹作詞)の一番に
海路一万五千余浬
万苦を忍び東洋に
最後の勝敗決せんと
寄せ来し敵こそ健気なれ
とロシア艦隊の苦労が労われています。
一方、日本連合艦隊は…
日本海軍連合艦隊は、1904年8月の黄海海戦と蔚山沖海戦にてそれぞれロシアの艦隊に勝利しており、制海権を得ていました。
さて、バルチック艦隊を迎え撃つにあたり、一番の問題は「バルチック艦隊がどのルートを通って来るか」でした。
バルチック艦隊はウラジオストクへ入港するだろうと予想されていたので、航路としては三通り。対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由が考えられました。
3カ所全てに戦力を置く訳にもいかず、大変頭を悩ましました。
結果、地理的な問題や対馬海峡には機雷が配置されていること等から、バルチック艦隊は対馬海峡を通ると予想し、主力艦隊を配備、訓練をして実戦に備えます。
5月23日、日本へ寄港したノルウェーの船が、南方にてロシア艦隊を目撃していたことを告げます。が、その数日前からバルチック艦隊の行方は掴めずにいました。
何やかんやあり、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将はバルチック艦隊が太平洋で発見されるまで対馬海峡にて待ち続けると決心しました。
どうもこの決心までに大本営といろいろとやり取りがあったようで、上層部や参謀たちは相当神経を使ったと思います。
「艦隊見ユ」の通報と迎撃準備
日本海軍の巡洋艦「信濃丸」が27日未明、バルチック艦隊の病院船を発見します。続いて早朝夜明け前に複数の艦船の煙を発見。
「敵ノ第二艦隊見ユ」と打電しました。
「信濃丸」は尚もバルチック艦隊と一定の距離を取りつつ並行して進み、危険を冒しつつ状況を打電しました。
幸いにもバルチック艦隊側からは発見されませんでした。
「信濃丸」の打電を受け、第一・第二艦隊に出港用意の命令が下ります。
6時頃、連合艦隊は出港。旗艦「三笠」は大本営に向け打電します。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
あの有名な電文はこの時のものなのです。
連合艦隊第三艦隊は10時頃、バルチック艦隊を発見。「三笠」へ報告。
バルチック艦隊の旗艦が掲げた旗を発砲命令と誤認した船が、第三艦隊に向け砲撃を開始。第三艦隊もまた、砲撃を返しながら距離を取ります。この時、双方の砲撃はどちらにも当たりはしませんでした。
バルチック艦隊は陣形を組もうとしましたが、何故か途中で中止。結果、第一戦艦隊の左後ろを遅れた状態で第二・第三戦艦隊が続く、という半端な陣形になってしまいました。
これを修正する為の命令を下すものの、陣形を戻す前に「三笠」が現れてしまいました。ピンチ。
その「三笠」ですが、第三艦隊より敵情報告を受けつつ航行、13時過ぎに第三艦隊と合流。
そして、バルチック艦隊を発見した連合艦隊は、戦闘開始を命令。バルチック艦隊の北側に適切な距離をとり、平行になるように変針しました。
14時前、東郷平八郎はZ旗の掲揚を指示します。
このZ旗、当時の信号簿に「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が当てはめられていました。
これも有名な一文ですね。
この文言、東郷平八郎が考えたと思われている人が多いそうですが、信号簿にて当てはめられた文言の為、東郷平八郎が考えたものという訳ではないそうです。
有名な「東郷ターン」
「三笠」は更に針路を変更。第一戦隊はバルチック艦隊と反対の針路に入ります(反航戦の形)。
バルチック艦隊は陣形が整わないまま砲撃に入りました。
双方の距離約8000m、東郷平八郎は急角度で左へ変針する指示を出します。
これが世に言う「東郷ターン」ですね。
バルチック艦隊の砲撃が「三笠」に集中しますが、撃ち返さず、回頭が完了した艦から砲撃を開始。
この時バルチック艦隊は先述したように陣形が半端なまま連合艦隊に攻撃を開始していました。連合艦隊が反撃に出た時、陣形を整えるのに速度を落とさざるをえず、転針を行うも常に「三笠」に先頭の艦の前に着かれているような状態。
両艦隊の打ち合いで、連合艦隊は巡洋艦一隻を、バルチック艦隊は複数の艦船を被弾により戦力から失っていました。
この撃ち合いは約30分だったといいます。
また、連合艦隊の第三・第四・第五・第六艦隊は後方にて、バルチック艦隊の巡洋艦等を攻撃。
バルチック艦隊の戦力は大きく減少しました。
七段構えの戦法
その後も追撃と夜間攻撃にて、バルチック艦隊を追い詰めます。
バルチック艦隊を迎え撃つに当たり、「殲滅させる作戦」を任されたのが秋山真之参謀です。彼は『坂の上の雲』で一躍有名になりましたね。
秋山真之参謀が悩みに悩んで考え出した作戦が「七段構えの戦法」です。
これは4日間の戦闘を想定して作られたもので、
第一段:主力決戦前夜の駆逐艦・水雷艇隊による敵主力部隊への奇襲攻撃
第二段:主力艦隊全力による敵主力艦隊への砲雷撃。
第三・四段:昼間決戦のあった夜、再び駆逐艦・水雷艇隊による敵艦隊への奇襲攻撃。
第五・六段:夜明け後、主力艦隊による徹底的な追撃、砲雷撃による撃滅。
第七段:残った敵艦を事前に設置していたウラジオストク港の機雷原に追い込み、撃滅。
以上の七段階に分けた攻撃を想定、訓練しました。
実際は、第二・第三段のみ、2日間でバルチック艦隊を撃滅することに成功したのです。
結果と影響
さて、結果として連合艦隊の大勝利で終わったこの海戦、
連合艦隊の戦死者は117名、戦傷者は583名。
バルチック艦隊は戦死者は4,830名、戦傷者・捕虜は6,106名であり、大損失を負いました。
当時、鎖国を廃止して約50年、植民地もないアジアの小さな国であった日本が、大帝国ロシアに勝利したことは世界中を驚かせ、アジアでの制海権を確実なものへとしました。
この海戦は平和交渉への決定打ともなり、ポーツマス講和会議へと繋がります。
また、戦闘で負傷し捕虜となっていたロジェストヴェンスキー提督は佐世保市の海軍病院に収容され治療、回復後は帰国しています。
連合艦隊の訓練と指揮統率と参謀たちのたてた作戦が大きな勝因であることは明確ですが、バルチック艦隊の長旅と航路にある国の反露感情による物資調達の困難等、そして天候も勝因と言えるでしょう。
また、砲弾や火薬などの新技術開発と海底ケーブルや無線機の活用も勝因の一つですね。
(このあたりのお話もいつか掘り下げて書ければなぁと思います。(勉強します…)
終わりに
以上の大勝利を記念して、戦前日本は5月27日を「海軍記念日」と制定しました。
先の戦争後、廃止となりましたが、海上自衛隊では毎年この頃に基地祭等、イベントを催しています。
また、香川県のこんんぴらさんとこ金刀比羅宮にて掃海殉職者慰霊祭が行われ、これに合わせて(出席する為に)高松港に掃海艦が入港します。
記念日ではなくなってしまいましたが、先人が母国を守る為に尽力し、国際的にも認められるようになったこと、日々の生活からは少し離れたところで脈々と受け継がれる名残りに思いを馳せてみては如何でしょうか?
終わり。
※不勉強故搔い摘んだ内容で書いています。戦史に関するもっと詳しい解説は他のいろんなサイト様で読む事ができますので、参考にしてくださいm(_)m