私の空を這いずる記

【日本史】広瀬武夫中佐のお話 その2

こんばんは。

 

今回は広瀬武夫氏の幼少期について少しお話します。

 

武夫氏の幼少期

武夫氏が8歳の年、母が死去します。33歳の若さでした。
母代わりに祖母・智満子が武夫氏ら兄弟を育てる事に事になります。これが武夫氏がおばあちゃんっ子たる所以でしょう。

 

そして、10歳の時。
明治10年、日本最後の内戦、西南戦争が起こります。

絶対社会科や歴史の教科書に載っていますし、ここで説明する程でもないと思いますが、さらっと説明しますと、
西郷隆盛を指揮官に旧薩摩藩士族と政府軍(陸海警察)が、熊本・宮崎・大分・鹿児島の各地で戦いました。結果は、政府側の勝利となりましたが、双方戦死者多数の大損害となりました。

この戦争の中で、薩軍が武夫氏の故郷・竹田を占領しました。
薩軍側は豊後攻略をすべく、竹田に各部隊を配置します。しかし、政府側も部隊を投入して反撃に出ました。10日余りに及ぶ激戦が繰り広げられ、政府軍の手に落ちました。

竹田攻防戦の際、武夫氏の生家は戦火に巻き込まれ焼失。
(戦火、と言っても薩軍が逃げる時に市外に火を放った事が原因です)
広瀬一家は故郷を離れざるを得なくなります。

 

母親が亡くなったと思えば、戦火に巻き込まれて住み慣れた土地を離れる…
なんてハードな幼少期なのでしょう。
しかし、幼い頃にこんな経験をしたからこそ、家族や他人に優しく寛容な青年になられたのだと思います。

 

 

竹田から高山へ

焼け出されてしまった広瀬一家は、父・重武氏が裁判官として赴任していた岐阜・飛騨高山に移る事になります。
新たな土地で新たな生活を送る事となり、当時小学生だった武夫少年は、高山煥章学校に編入しました。

この「高山煥章学校」、調べてみると、高山で初めての近代式学校として作られ、明治9年にフランス風の校舎が建てられたそうです。
武夫少年が高山に来たのが明治10年ですから、出来立てピカピカのおフランス風近代式校舎の学校に通う事になったのです。

 

ここで武夫氏は多くの友人を得ます。「その1」で書いた友人とのエピソードも高山時代かな?

 

高山時代の逸話にはこんなものも。

雪滑り(スキー?)ではチャンピオンになり、カルタ大会では一度も顔に墨を塗らせず、詩会の時は必ず甲だった。
「之を要するに、君は何をしても勝気なりき。不負魂は時に同窓の僕等を泣かしめ、先生を困らしめぬ。」

 

この腕白ボーイが~!可愛いな、全く!

武夫氏の腕白エピソードが逸話としてよく残っていますが、実は普段は大人しく無口な方だったそうです。
勝負事となると容赦せんタイプだな?

 

飛騨高山の自然と環境が、武夫氏の身も心も大きく育てる事となったのでしょう。

 

 

次回も幼少期の続きを書きたいと思います~。

続く。

 

※これは個人で地道に調べた内容です。史実とは多少異なる可能性もありますので、ご容赦ください。

 

 

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