私の空を這いずる記

【日本史】奉天会戦の勝利を祝う。陸軍記念日【今日は何の日?】

こんにちは。まこです。

記念日として制定された(されていた)日本史の出来事等を書いてみたいなぁ、と思っていたので一つ書いてみました。読みにくいです(^ω^;)
シリーズ化出来たらいいなぁ~。

 

今日は何の日?

3月10日は『陸軍記念日』です。
1905年(明治38年)、日露戦争における奉天会戦の勝利を記念して設けられた記念日です。

日露戦争は義務教育課程で習いますし、数年前にNHKで『坂の上の雲』がドラマ化されたので、なんとなくでもご存知の方が多いかと思います。
なので、ここでの戦争に至った経緯等は割愛しますm(_)m

 

奉天会戦とは?

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奉天(現在の瀋陽)だいたいこの辺り

さて、奉天会戦とは、日露戦争全過程の内、最後の方の会戦です。
日露戦争での陸軍の戦いで有名なものといえば「旅順攻囲戦」において旅順要塞を陥落させた事でしょうか。寧ろそれしか一般には知られていない気がします。映画にもなっていますし…。
もちろん、旅順攻囲戦だけで終わりではありません。
奉天会戦の時には、戦線は満州の奥へ伸び、兵力等の補充は困難、且つ、これまでの戦いでの消耗も激しく、危うい状況にありました。
しかし、日本軍が有利な内に講和を結ぶ為、総力戦に挑む事になりました。
こちらの兵力回復の間に、ロシア軍も兵力回復してしまいますからね。

 

日本軍の指揮官は大山巌。と、児玉源太郎。
因みに。大山巌は西郷隆盛の従兄弟にあたる人です。奥さん(後妻)は、大河ドラマ『八重の桜』の主人公・山川捨松。
日本軍の戦力、24万。
ロシア軍の戦力、36万。

 

前哨戦も含めて二週間弱の会戦でした。
先ず、日本軍最右翼の軍隊が進軍、清河城のロシア軍を破ります。
が、この軍隊には乃木第三軍から編入された第11師団がおり、旅順攻囲戦での消耗が激しく急ぎ応召された兵隊を補充していた為に戦力は十分ではありませんでした。
やられたらやり返す、倍返しだ!って感じにやられたり。
それでもなんとかここでのロシア軍の支隊を撃退しました。

 

3月に入り、日本軍は奉天への攻撃を開始します。
乃木第三軍と秋山好古が率いる支隊がロシア軍両翼を抑えるべく奮闘しますが、正面では、ロシア軍に撃退されてしまう様な事になっていました。
28サンチ砲等の砲撃が、満州のめっちゃくちゃ寒くて凍った地面の為に威力が半減したり、火薬に威力が足りなかったりで、満足に戦えなかったのが原因でした。
そこで、乃木第三軍に奉天を包囲させ、ロシア軍の退路を断ちつつ攻撃させる作戦に変更します。
乃木希典と第三軍を高く評価していたロシア軍の指揮官は、別の隊(前哨戦で第11師団の編入された隊)を第三軍だと思い、そこに予備軍を多く派遣していましたが、本当の第三軍の動きを知って、大量の予備軍を乃木第三軍に向かわせます。
乃木第三軍はロシア軍の正面からの猛攻に耐えつつ前進せねば成らず、苦しい戦いを強いられました。
なんとて先の旅順攻囲戦での消耗激しく、定員に満たぬ状態で戦い続けていますから、いつ崩壊してもおかしくありません。
が、精鋭部隊の第三軍。約3倍の戦力のロシア軍と対等によくよく戦いました。

 

さて、ロシア軍も兵力を消耗しつつ乃木第三軍以外の日本軍にも損害を与えつつ、後退を始めました。
この後退は計画的なもので、乃木第三軍の方へ兵を移動させる為です。よって、乃木第三軍、そして、秋山支隊は苦戦を強いられていました。
日本軍全体の被害は広がっていきます。
兵の補充もままならぬ状況で、日本軍首脳陣は総力戦を指示。案の定、日本軍の損害は甚大、逃走兵も出たり、もう絶体絶命…な状況。
ロシア軍が総攻撃に出たら一巻の終わりでした。
そこで、やっとこさ児玉源太郎が作戦変更を決定。
第二軍・第四軍に奉天へ前進する様命令を下したのです。

 

一方、ロシア軍は、ずっと乃木第三軍を気にしていました。
9日、第三軍に退路を断たれる事を恐れ、鉄嶺・哈爾浜方面へ転進。
ロシア軍のまさかの行動に驚いたのは日本軍総司令部。まだ兵力に余裕があるはずであるのに総撤退を始めたかの様に思われたからです。
10日、最早無人の奉天に日本軍が到着。
第四軍はロシア軍を追撃、打撃を与えました。
結果的に奉天を制圧したのです。

 

この会戦は、日露の兵力が衝突した最大で最後の陸上戦であると言われています。
日本軍の戦死者は約1万5千人。負傷者は約5万9千人。
ロシア軍の戦死者・行方不明者は約1万6千人。負傷者は約5万1千人。捕虜は2万8千人。
両軍ともに甚大な被害となりました。

ロシア軍も兵力の回復には大変時間がかかる状況になり、士気はだだ下がりになりました。軍隊として体をなさない程に崩壊していたと言われています。
ロシア軍指揮官は、向かっていた鉄嶺を捨て、北へ退却。その後、罷免されています。
奉天会戦は日本軍の勝利という事になりましたが、そもそもロシア軍は計画的に撤退した伝統的戦法をとったのであって敗北ではない、とロシアや欧米は評していました。
が、ロシア軍指揮官の罷免により、敗北を認める事になったのでした。

 

講和から終戦へ

奉天会戦に辛くも勝利した事により、児玉源太郎は終戦の講和へ持ち込む為、東京へ戻ります。
その頃日本では、会戦勝利に沸き、戦争継続論が高まっている状態でした。
大本営も新たに師団を作って樺太へ上陸、占領しちゃうし。陸軍首脳陣も戦争継続・戦線拡大しようとか主張してるし。
児玉源太郎は戦争終結方向を探る様、強く具申します。
そして、海軍大臣・山本権兵衛が児玉源太郎の意見に賛同。日露講和の準備が進められる事となりました。

 

アメリカを交えロシアに講和を促しますが、ロシア海軍のバルチック艦隊が日本海に向けて航海中の為、講和を渋ります。よって、講和は頓挫。
5月末、万苦を忍び日本海へやって来たバルチック艦隊。日本海海戦は日本海軍の完勝に終わりました。

 

これにより、9月に休戦成立。
10月、ポーツマス条約が結ばれ、やっと日露戦争は終戦となりました。

日本陸軍は奉天会戦を「関ヶ原」のつもりで挑んだと言われます。
つまり決戦ですね。その決戦の勝利を祝って、翌年の1906年(明治39年)から3月10日を「陸軍記念日」として設けられました。
昭和21年に廃止。

 

祖国の為に家族の為に未来の為に、文字通り命をかけて戦われた方々に敬意を込めて。また、今後平和な世が続く事を祈って。

 

終わり。

 

 

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